• 小野寺修二演出『竹取』に寄せて

    2014年、静岡県舞台芸術センター(SPAC)制作の『変身』(原作、F・カフカ)で、僕は小野寺修二さんの稽古場にいた。初めて過ごす小野寺さんとの稽古、その2、3日目だろうか、宿舎への帰り道、経験したことのない不思議な感覚に襲われた。目に入ってくるもの、聞こえてくるもの、何気ないすべての現象が、自分に何かを語りかけていたのである。手に持つ冷ややかなバックステージパス。自分自身の足音。交差点で信号を待つ間、暗闇から猛スピードで通り過ぎる赤い車。それらすべてが、何かを伝えようと、必死に僕に迫ってきた。

    いったい、意味とはなんだろう。私たちの身振り、声、視覚的なサインが伝えようとしていることはなんだろうか。そんなことを強く問うようになった。ある種の社会的言語が、本来の意味を剥奪していることは大いにあり得る。むしろ、あの赤い車のスピードこそが、そのイメージの強さにおいて十全な感情を与えてくれるということも、大いにあり得るのではないか。

    ふと学生時代に読んでいたJ=J・ルソーのことを思い出し、その『言語起源論』を再び紐解いた。副題に「旋律と音楽的模倣について」とあるように、音楽思想史ではよく知られている書である。人間が社会化されていくなかで、「自然」な声の抑揚が次第に分節され複雑な言語体系へと取って代わられることを語りながら、次のような例が出てくる。「苦痛を受けた人を見ても泣くほど心を動かされることはない。しかしその人が自分の感じていることすべてを言うのであれば、あなたはまもなく涙にくれるだろう」。「自然」を離れた人間にとって悲劇とは、言葉でしか理解できないものになっているのだ。

    おそらく小野寺さんが突き動かされているのは、こうした社会的言語以前のものだ。そして何より、僕自身が音楽という体系を、解体するのではなく内側から見つめ直したいのも同じ理由だ。ティンパニという、よく知られたかくも近代的な楽器からその近代性を忘れさせ、ただその美しい真円と楕円が生み出す音の形象を聞いてみたい。月の物語について考えたとき、ほとんど数秒で、僕はその結論に達していた。

    2018年10月
    阿部海太郎
    現代能楽集Ⅸ『竹取』パンフレットより)